伊達時代(前期)

十九歳(永禄七年/1564年)

家督を継ぎ当主となった伊達輝宗の正室として輿入れ

最上家と伊達家の橋渡し的な役割。
兄と頻繁に文のやり取りをしており、最上へ里帰りもしていた様子。



※三年間子が出来ず、伊達家中で孤立※

家臣からの仕打ち(嫌がらせや陰口)に堪りかねた義姫が妾を持つように進言するが、輝宗公は頑として受け入れなかった。と云う話が一般的に知られている。理由は「愛妻家であった為」「恐妻であった為」と云う説があり、一般的には愛妻家だった為と云う説の方が広く流布している
(輝宗公の父親もまた妾を持たない人物だった(但し子沢山)ので、輝宗公の行動に訝しい点は無いと考える)。



二十一歳(永禄十年/1567年)

懐妊・出産

※子宝を神仏に祈願し、ご利益のありそうな場所には積極的に詣でていたらしい。長男の名前・梵天丸は奉じた御幣(梵天)に由来している。
※「隻眼の高僧が胎を借りたいと夢枕に立つが夫の意見を請いたいと返事を待ってもらい、翌日輝宗公の許諾を得て再度夢枕に立った高僧へ了承し、長男が宿った」と云う逸話はかなり有名。



二十二歳(永禄十一年/1568年)

伊達領へ相馬軍が侵攻するも伊達軍により撃退。



二十五歳(永禄十三年/1570年)

中野宗時の乱
※天文の乱の功労者と云う事で伊達家中で当主を凌ぐ権勢を振るっていた中野親子に謀反の疑い有りと攻め落とした。此れにより現当主輝宗公へ権力が完全に移行した。



二十六歳(元亀二年/1571年)

嫡男・梵天丸、痘瘡に罹り右目失明。



二十八歳(天正二年/1574年)

天正最上の乱
※最上家内において家督争い(諸説あり)が起こり、輝宗は先代・義守公の味方として出兵(同年五月)。結局伊達軍はさしたる戦もせずに撤兵(同年九月)する(此の撤兵は、義光公が戦上手で戦況を覆したとするものや義姫が撤兵を促した事が切欠とする説等、諸説ある)。


此の戦により、伊達家は最上氏の支配権を完全に失ってしまう。



三十歳(天正四年/1576年)

伊達領へ相馬軍が侵攻するも、伊達軍により撃退。



三十一歳(天正五年/1577年)

梵天丸が元服し、伊達藤次郎政宗となる。



二十二~三十二歳

第二子・竺丸出産(1568~1578年/詳細不明)

【私見:義姫と子供/梵天丸と竺丸】
第二子・竺丸は、1568年・1577年・1578年と生まれた年が定かではない。
年子の出産であれば世間で言われるところの家督争いが多少真実味を帯びるが、それならば、奥羽の鬼姫と異名を取る御仁の事、両家の安寧を磐石な物にすると云う大儀を掲げ廃嫡の願い届けであるとか根回しをしていた筈で、家中の日誌に書き記されるような明確極まりない騒動を起こしそうなものではなかろうか。加えて、教育熱心な輝宗公の事。年子であるのならば梵天丸と机を並べて……は無理かもしれないが、其れに近い教育を施しているのではと疑問する。また十年後に出来た場合であるが、嫡男が元服して嫁も決まってる(しかも重要な政略結婚)時点で廃嫡を考える程無謀ではないと愚考。
1578年に出産の場合産褥の身で駕籠に乗って戦場に出向いて諫言した事となるので、些か無理を感じる。

「失明後、醜さに嫌悪し次男を溺愛した」説に関しても、祖父の宴に嫡男のみ出席(晴宗公の宴に参加し和歌を詠んだという記述あり/出展不明)したり、義光公との和歌のやり取りがあったりと、蔑ろにしている様子は見られず。
また容姿に関しては、近年政宗公の遺骨を検査したところ眼窩に傷は無く両方の眼球が揃っていた可能性が高いとの説が近年発表され(瞳部分が白く濁る状態の失明で光は感じられたと云う見解)、一般的に流布している容貌の醜さはなかった可能性が高い(痘痕はあったと思われるが)。

第二子・竺丸は、記録が少ないので実在すら危ぶまれており、溺愛説に関しても明確な文書は存在していない。

…………管理人、お義様と政宗公不仲説に甚だ懐疑的です。



三十二歳(天正六年/1578年)

上山・伊達連合軍による最上攻め(柏木山の戦い)
義姫が陣中で輝宗公を説得し撤兵させる。

御館の乱発生
伊達氏、盟約により蘆名氏と共に越後へ出兵するも新発田氏に阻まれ全く戦果は上げられず、景虎方敗退により旨みのないまま撤退。
※後の新発田の乱へと繋がっていく。



三十三歳(天正七年/1579年)

嫡男・藤次郎政宗へ田村氏の娘・愛姫輿入れ

※此の婚姻は田村氏との関係を密にし、天文の乱以来の伊達家の宿敵・相馬方を切り崩す意味があった。



三十五歳(天正九年/1581年)

嫡男・藤次郎政宗、初陣

新発田の乱(~天正十六年/1588年)
※新発田氏が上杉景勝へ反乱を起こす。伊達は柴田・蘆名と共に新発田を支援した。



三十三歳~三十八歳(天正七年~天正十二年/1579~1584年)

相馬合戦
天文の乱以来相馬氏に奪われていた伊達領を奪還し、対相馬戦は一応の決着を見たと言う処で停戦となる。



本能寺の変(天正十年/1582年)

賤ヶ岳の戦い(天正十一年/1583年)

【私見:中央情勢と輝宗公】
中央との接点として関係を築いてきた両氏の討ち死にと云う、輝宗公にとってかなり大きな読み違えが発生した時期と思われる。



三十八歳(天正十二年/1584年)

夫と共に舘山城(最上米沢)へ隠居。


※輝宗公から政宗公へ家督相続。

輝宗公    四十一歳
藤次郎政宗公、十八歳

【私見:夫と息子】
よく働き盛りで~と云う言葉を見るのだが、確かに十八歳で家督相続は早すぎた感もあるが、人生五十年と普通に謡われる時代であれば、輝宗公自体はそれなりの年齢と言っても良いのではないかと思われる。

隠居先は山城。
伊達領内を息子に任せて夫は自分で築いた同盟を用いて上杉攻め着手に本腰を入れようとする。
息子はそんな父親の思惑をご破算にし、伊達頭領としての自分の確固たる地位を築く為独自に動き始める。
此の時期の義姫の動きを記す文書が無く(管理人が不勉強なだけと云う可能性大いにあり)、代替わりの度に発生する親子の確執に、ほとほと呆れていたのではと感じてしまう。

隠居に際しての政道の動きは不明。



三十九歳(天正十三年/1585年)

夫・輝宗公死去(享年四十二歳)。
※宮森城滞在中、訪れた畠山義継に拉致され、阿武隈川畔辺にて死去。
死因は義継に殺されたとも伊達軍鉄砲隊の銃撃によるものとも言われており、伊達家の実権を掌握したい政宗公に謀殺されたと云う異説等、諸説あり。
一般的に流布している此の事件による息子・政宗への面罵と決定的な対立に関しての明確な史料は存在しない。

夫の死に伴い妻は出家するのが通例であったが、義姫様は髪をおろすことはなく、また、実家に戻る事もせずに当主の母として伊達家に残った。



  • 最終更新:2013-05-18 13:10:58

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